mousousyokudou0821

連載「妄想食堂」

 人と食事をするのが恥ずかしくてたまらない。食べかけの料理。食べる自分の口元。いちいち乱雑に思えて気になってしまうし、なにかおかしい食べ方をしているのではないかと不安になる。食器の運び方に食べる順番は間違っていないか。相手より多く食べたり、がっつき過ぎたりしていないか。知らず知らずのうちにみっともない真似をしてはいないか。うっかり口の端から食べものがこぼれる。汁気がつたう。食器がぶつかったりこすれ合ったりして、耳障りな音を立てる。肉が噛みきれない。皿にコーンなんかの取りにくい食材が散らばっていたりして、見苦しい振る舞いを強いられるときには死にたくなる。やっぱり食事ってすごく汚くて見苦しいし、他人と一緒にするものじゃないよ、と思う。

 食事とセックスはよく似ている。命のある食べものをぐちゃぐちゃに噛みちぎってすり潰して、唾液とどろどろになるまで混ぜ合わせて、自分の一部にしてしまう。大好き大好きとつぶやきながらひどいことをする。

 自分の欲望を満たすための行為なのに、がっつくのはだめ、だけどほどほどに、相手や周りの人が喜ぶ程度にはそそられている様子を露わにしないといけないという、よくわからない繊細さがある。出された料理には「わあ、おいしそう」「お腹ぺこぺこなんです」と嬉しそうな顔をするのがマナーで、それなのに涎をだらだらこぼしたり、飢えた獣のように食らいついたりすることは許されていない。セックスだって同じだ。欲情したそぶりを見せつつ、でもなんとなく恥ずかしがったり勿体ぶってみせたりすることが推奨されている。どっちも変だよな、と思うけれど。

 本当はそれなりにむごたらしくて汚らしいことのはずなのに、なぜかとてもあたたかくて愛情深い行為のように扱われる。あたたかい食卓。愛のあるセックス。かと思ったら今度は急に「いやしい」とか「いやらしい」などという言葉で貶められたりもするので、これにもまたなんなんだよ、と思ってしまう。繊細すぎるし、矛盾しすぎではないのか。不自由にもほどがある。でもだからこそエロティックな空気を醸しているのかもしれない。

 人と食事をするのは、恥ずかしくて不自由だ。だけどそういうふうに恥ずかしい気持ちにさせられたり、不自由な気持ちを共有することに嬉しくなったりもするからおかしい。

 たとえばきれいな食べ方の人と同じ席に着くときは、好ましく思いつつも、めまいがするほど緊張してしまう。きれいにものを食べられるというのは、それだけ本人が意識をしているということだから。耳が熱くなって、手元もおぼつかなくなる。でもそれがちょっと気持ちいい。これは一種の羞恥プレイではないかと思う。

 それに私は、きれいな食べ方ができる人よりも、きれいに食べようと努力している人の方が好きだ。洗練された所作よりも、食事に対する恥の意識にがんじがらめにされた、ぎこちない動きに気を惹かれる。口元を手で覆いながら、恥ずかしそうに、しずしずとものを食べる。そんな仕草を見るとむらむらしてしまう。互いの人に見せられる部分と見せられない部分の間にある、ごく薄い膜をゆっくりと擦り合わせているような心地がする。

 食事がセックスに似てエロティックなのは、きっとただ衝動のままに快楽を貪るだけの行為ではなく、その衝動をどうにかして理性の膜で覆い隠そうとする、懸命さや不自由さを備えた行為だからだ。

 欲望のままにがっつく食事なんて、それだけではエロくもなんともない。そこにエロさを見いだすことができるのは、食事にはルールやマナーが必要だという意識が前提としてあるからだ。衝動と理性のせめぎ合い。それを頭の隅に置きながら、同じ食卓に着いた人びとは互いのルールをこすり合わせる。どこまで見せていいのか。どこから取り繕えばいいのか。汚い。恥ずかしい。みっともない。だけどあなたと食事がしたい。いたるところで官能的なこすり合いが行われている。

 本当はこんなふうに、エロティックなことなんてたくさんある。エロいのはセックスだけじゃないし、私にとっては食事が、そして食事について妄想するのが、何より興奮することだった。

 私たちは食事という行為において、いったい何を目指しているのだろう。栄養の摂取? 欲望の発散? 愛情深いコミュニケーション? 味わうことの快楽? わからないし、きっと本当はどれでもいい。どれでもいいから、その全部を味わいたい。そのためにはよくよく考えることが必要だろう。だから目を凝らして、匂いを嗅いで、耳を澄まして、指で歯で舌で喉で触れて、どろどろのぐちゃぐちゃになるまで咀嚼するのだ。元の形なんてわからなくなるくらいに、正しい答えなんてどうでもよくなるくらいに。それはきっと、とんでもなくおいしい妄想だ。



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